「近代・現代」
明治維新時、上尾市域は1宿1町43か村に分かれ、その領有関係も幕府領、旗本領、寺社領が錯綜する複雑な状態でした。明治政府は、合理的な地方統治を図るため、次々と地方制度の改革を推し進めました。このような中で、宿町村の整理統合も進み、明治7年(1874年)に合併により平塚村、瓦葺村が誕生し、翌年には石戸領の領家村に菅原新田が合併し、1宿1町38村になりました。明治21年(1888年)4月に公布された市制・町村制は、高額納税者に参政権を認め、有力者による地方支配体制を作り上げましたが、それに伴い広く町村合併がおこなわれ、埼玉県内では町村数は5分の1に減少しました。上尾市域においては、明治22年(1889年)4月に上尾町(6宿村)、平方村(5村)、大石村(10村)、大谷村(10村)、及び上平村(7村)が成立しましたが、原市町と瓦葺村は合併せずに組合村となったため、2町4か村1組合村にまとまりました。
その後対象2年(1913年)に原市町に瓦葺村が合併し、昭和3年(1928年)には平方村に町制が施行され、3町3村となりました。この6町村は、昭和30年(1955年)1月に合併して上尾町となり、3年後の昭和33年(1958年)7月15日には市制を施行し、今日に至っています。
上尾市の人口は、明治22年の約1万6、000人に対し、昭和30年には3万5、480人と66年間にほぼ2倍になりましたが、昭和50年(1975年)には14万6、358人に激増し、平成4年(1992年)6月には20万人を超えました。特に昭和40年(1965年)からの5年間の人口の伸びは、人口5万人以上の都市としては全国一でした。
この近代上尾市域の発展は、明治16年(1883年)の現JR高崎線上尾駅の開業に始まります。近世の宿場町は、交通手段が変わっても、近在の人や農産物などの集積・出荷場として、また平方河岸を経て県内一の商業都市川越に通じる要衝として、その役割を維持しました。昭和に入ると高崎線の複線化も進み、近代工場が建設されるようになり、工場誘致政策とも相まって昭和30年代には県内有数の工業都市へと成長しました。
一方、首都圏へ40キロ圏内という恵まれた地理的条件は、昭和40年代に入ると大規模な住宅団地の建設が相次ぎ、ベッドタウンとして急激な人口増と宅地化をもたらしました。土地利用を見ても、昭和31年の調査では、宅地9%、田13%、畑54%、山林23%でしたが、平成6年にいは宅地34%、田3%、畑23%、山林6%と変化しています。駅前広場の整備や区画整理などの都市基盤整備も進み、上尾は現代になってその様相を大きくかえてきています。
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