上尾市の沿革

 

 「原始・古代」

   上尾の地に人が住み始めたのは、いつのころでしょうか。土器を作ることを知らなかった旧石器時代の石器が市内で数多く発見され、殿山遺跡などの足跡から、今のところ2万2千年前の頃までさかのぼることが出来ます。

   上尾市内には400箇所以上の遺跡がありますが、そのうち最も多く残されているのは縄文時代のものです。土器を製作し狩猟・漁労生活を営む縄文時代は紀元前1万年ほど前から9千年以上の長期にわたって続きますが、上尾市域では、当時の人々住居跡や土器が、市内を流れる4つの流域で途切れることなく多数発見されています。平方では貝塚(西貝塚)と言う地名が現在でも残り、縄文時代早期末(紀元前4千500年頃)は海が現在の市内まで侵入していたことが確認されています。

   次いで、弥生時代が数百年続きました。水稲栽培が伝わり食料の生産が開始され、金属器を製作しました。集落は大きくなり、農耕を基盤とした共同社会の中から階級が形成されるようになりました。この時代の後期から古墳時代に移行する時期の尾山台遺跡では、66軒の住居跡が密集する大集落が発見されています。古墳時代は3世紀後半〜7世紀中頃まで続きますが、人間の社会はこの時代になって階級文化が進み、支配層の墳墓である古墳が造られました。荒川流域や薬師耕地前遺跡では、多数の方形周溝墓が造られ、4世紀末から5世紀初頭にかけて江川山古墳や殿山古墳がそれぞれ築かれました。特に江川山古墳については、2面の銅鏡(彷製鏡)が出土しており、大和政権との関係を裏付けるものです。そして、これら古墳の築造時期は、4世紀に大和政権が諸豪族の支配者となる過程に期を一にしています。

   大化の改新の詔(みことのり)(645年)が出され、大宝律令(701年)が制定され、和銅3年(710年)には平城京に都がおかれて、律令国家としての奈良〜平安時代が始まりました。しかし、残念ながら、この時期の現上尾地域の状況を明らかにする文献資料は見つかっていません。ただ、平安時代の遺跡で特徴的なのは、製鉄遺跡が見つかった伊奈町西部を中心に市内平塚・原市地区から大宮市北部にかけて炭焼き窯が集中していることです。この地域は雑木林が広がり、木々の間から炭焼きと製鉄炉の煙が立ち昇る製鉄関係の”工業団地”であったといえます。

 

 

 

 「中世」

    治承4年(1180年)源頼朝の伊豆挙兵から天正18年(1590年)小田原北条氏滅亡までの400年間の武蔵国は、多くの武士団が大活躍をし、また戦乱に明け暮れた時代です。しかし、この時代も上尾地域の歴史を物語る地域的な資料はなく、支配者側によって作成された資料の中からごく断片的に市域の歴史の一こまをうかがい知ることができるのみです。

   武士団のうち上尾市近辺で活躍したのは足立氏でした。鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」には治承4年(1180年)、足立遠元が現在の上尾市を含む足立郡の支配権を源頼朝から認められたとあります。鎌倉時代の名残をとどめるものとして「領家」・「地頭方」・「壱丁目」といった地名が現存しています。「領家(平方領)」と「地頭方」は、荘園の領主と武士の代表である地頭とが、土地の所有権を争った名残の地名です。また、「壱丁目」は、承久の乱(1221年)後、幕府が新補地頭に対して、その受け持ち区域の11町歩の土地を免税地として与えたことにちなむ地名です。つまり「壱丁目」は、「壱町免」がなまった俗称と思われます。

   室町時代に入ると、建武元年(1334年)に足利直義が三浦時継に大谷本郷などの地頭職を、さらに文和元年(1352年)には足利尊氏が春日行元に菅谷村を、それぞれ勲功の賞として与えた旨を記述した資料などが残存しています。

   戦国時代の上尾市域は、そのほとんどが小田原北条氏の支域である岩付城(現岩槻市)の城主太田氏の支配下にありました。この時代では、永禄8年(1565年)に前岩付城主太田資正が高麗豊後守に今泉の地を与えたこと、永禄10年(1567年)頃に原市の代官を岩付太田家家臣恒岡越守の弟で平林寺の僧泰翁宗安が務めたことなどが、残存する資料からうかがえます。なお、現在徳星寺に保存されている天正17年(1589年)8月28日付けの「太田氏房印判状」は市内に残されている唯一の中世文書です。なお、市内では、中世の人々の信仰を知るうえで欠かすことのできない資料として、板石塔婆約500基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)42個体、五輪塔3個体っが現在まで確認されています。 

 

 

 

 「近世」

    近世をいつからとするかは諸説がありますが、ここでは天正18年(1590年)7月に小田原北条氏が滅亡し、翌8月の徳川家康の関東入国を近世の始まりとします。この時代には現在の上尾市域は、ほぼ中央に位置する上尾宿のほか、30から40以上の宿町村に分かれていました。そのほとんどは天領と呼ばれる徳川幕府の直轄地か、牧野氏や西尾氏などの旗本知行地でした。江戸時代には、荒川の舟運が開かれ平方河岸と畔吉河岸は江戸と結ぶ流通の要地となりました。一方、中山道の宿駅制度が確立し、上尾宿は宿場として栄えました。宿の中心には本陣1、脇本陣3と人馬の取次ぎをする問屋が設けられていました。また、中世からの市場町だった原市には幕府公認の六斉市が立ち、市日には相撲興行なども行われました。市場町の面影は今も原市の町並みの中に残されています。幕末の上尾地域の歴史で特筆すべきことは、紅花の栽培と取引です。市内には紅花の取引に関する資料が数多く残されており、それによると市域の在郷商人が京都や江戸の大商人とも紅花の取引をしていたことが明記されています。この当時の上尾地域は山形と並ぶ紅花の特産地でした。

 

 

 「近代・現代」

    明治維新時、上尾市域は1宿1町43か村に分かれ、その領有関係も幕府領、旗本領、寺社領が錯綜する複雑な状態でした。明治政府は、合理的な地方統治を図るため、次々と地方制度の改革を推し進めました。このような中で、宿町村の整理統合も進み、明治7年(1874年)に合併により平塚村、瓦葺村が誕生し、翌年には石戸領の領家村に菅原新田が合併し、1宿1町38村になりました。明治21年(1888年)4月に公布された市制・町村制は、高額納税者に参政権を認め、有力者による地方支配体制を作り上げましたが、それに伴い広く町村合併がおこなわれ、埼玉県内では町村数は5分の1に減少しました。上尾市域においては、明治22年(1889年)4月に上尾町(6宿村)、平方村(5村)、大石村(10村)、大谷村(10村)、及び上平村(7村)が成立しましたが、原市町と瓦葺村は合併せずに組合村となったため、2町4か村1組合村にまとまりました。

   その後対象2年(1913年)に原市町に瓦葺村が合併し、昭和3年(1928年)には平方村に町制が施行され、3町3村となりました。この6町村は、昭和30年(1955年)1月に合併して上尾町となり、3年後の昭和33年(1958年)7月15日には市制を施行し、今日に至っています。

   上尾市の人口は、明治22年の約1万6、000人に対し、昭和30年には3万5、480人と66年間にほぼ2倍になりましたが、昭和50年(1975年)には14万6、358人に激増し、平成4年(1992年)6月には20万人を超えました。特に昭和40年(1965年)からの5年間の人口の伸びは、人口5万人以上の都市としては全国一でした。

   この近代上尾市域の発展は、明治16年(1883年)の現JR高崎線上尾駅の開業に始まります。近世の宿場町は、交通手段が変わっても、近在の人や農産物などの集積・出荷場として、また平方河岸を経て県内一の商業都市川越に通じる要衝として、その役割を維持しました。昭和に入ると高崎線の複線化も進み、近代工場が建設されるようになり、工場誘致政策とも相まって昭和30年代には県内有数の工業都市へと成長しました。

   一方、首都圏へ40キロ圏内という恵まれた地理的条件は、昭和40年代に入ると大規模な住宅団地の建設が相次ぎ、ベッドタウンとして急激な人口増と宅地化をもたらしました。土地利用を見ても、昭和31年の調査では、宅地9%、田13%、畑54%、山林23%でしたが、平成6年にいは宅地34%、田3%、畑23%、山林6%と変化しています。駅前広場の整備や区画整理などの都市基盤整備も進み、上尾は現代になってその様相を大きくかえてきています。