左が「埼玉県」です。

 私達の町は、
 埼玉県の中央右の蝶の形です。

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 The map on the left side shows Saitama Prefecture
 The shape of a butterfly on the bottom right is Ageo City.
 Please click here.
  

 


 埼玉県は、関東平野の内部に位置する内陸県で、東西約103km、南北約52km、面積はおよそ3,800kuです。
 この広さは、国土の約100分の1に当たり、全国で39番目です。

 東経138度43分〜139度54分、
 北緯35度45分〜36度17分

 Saitama Prefecture is located in the inland part of Kanto Plain and the land area is 103km
 from east to west, and 52km from south to north and the area is about 3,800 sq/km.
 It occupies about 1/100 of Japan’s total area and is the 39th largest prefecture in Japan.

 It lies from 138 to 139 deg.east longitude and 35 to 36 deg. north latitude. 

 西部の山地、中央部の洪積台地、東部の沖積低地からなっています。山地面積がおよそ3分の1、残り3分の2を
 平地が占めています。

 四季の変化が明らかな埼玉県は、冬は乾燥した"カラッ風"といわれる北西季節風の吹く日が多いです。
 夏は南東の季節風が支配的となり、これが雨を運んでくるため、多雨期となり、日中の気温はかなり高く、厳しい
 蒸し暑さが特徴といえます。

 Saitama Prefecture consists of a high mountainous area in the west, dilluvial heights
 in the central area and alluvial land area.
 This mountainous range falling away to make a low plain area in the east.
 About one thirds of land mass is mountainous.
 The climate of Saitama is very distinctive
 In the winter, it is very dry and north west seasonal winds blow very strongly.
 In the summer, a south east seasonal wind prevails and wind brings much rain
 in the rainy season.
 Normally the temperature rises higher and the hot days of summer are often
 accompanied by high humidity and are therefore extremely muggy.

 

  石器時代から奈良時代へ

   埼玉に人々が暮らすようになったのは、今から約50万年前と考えられています。秩父市小鹿坂遺跡から発見された石器から、当時の人々は、狩りで取れた獣や魚などを食糧にしていたことがわかります。1万年ほど前になると、煮炊きや貯蔵のできる縄文土器が作られ、食糧事情はさらに豊かになりました。

   2,000年ほど前になると、西日本から稲作が伝わり、これとともに、金属器を使う新しい文化も伝えられました。稲作により、台地のへりや低地に大きな集落ができるようになりました。弥生土器が作られるようになったのもこのころです。

   約1,600年前、関東でも古墳が造られるようになりました。行田の埼玉(さきたま)古墳群は、大型の古墳が9基もあって壮観。このうちの一つ、稲荷山古墳から出土した国宝の金錯銘(きんさくめい)鉄剣は、115の文字が刻まれていて、古代東国の様子を知る貴重な資料となっています。奈良時代になると、法律や戸籍もでき、農民に一定の広さの土地を分け与え(口分田(くぶんでん))、税として祖(そ)・庸(よう)・調(ちょう)を納めさせていました。秩父・美里(みさと)・熊谷とその周辺などには、当時の条里遺構があります。

   また、秩父から朝廷に銅が献上されたのを記念して、年号を和銅とし、和同開珎(わどうかいちん)という貨幣が造られました。

 

  鎌倉時代から江戸時代へ

   平安時代、都で貴族が華やかな生活を送っていたころ、遠く離れた、ここ関東では、各地で武士団が台頭し、世にいう坂東八平氏(ばんどうはちへいし)や武蔵七党も、大いに活躍を始めました。

   鎌倉時代には、武士が政権をにぎるが、このころ活躍した河越(かわごえ)氏は川越市上戸(うわど)に、畠山(はたけやま)氏は嵐山町菅谷に館を構えていたといわれています。そのほか、武蔵武士の館跡が県内各地に残されています。

   南北朝争乱の時代に入ると、武蔵武士は分裂して抗争を始めました。県内では、小手指(こてさし)ヶ原(所沢市)の合戦場をはじめ、女影(おなかげ)ヶ原(日高市)・入間川(狭山市)・五十子((いかっこ)本庄市)などが合戦場として知られています。

   室町時代の後半から戦国時代にかけて、有力な武将たちは、城を築いて敵に備えました。鉢形(寄居町)・松山(吉見町)・八幡山(児玉町)・岩槻・川越・忍((おし)行田市)などの城を中心に戦いが繰り広げられ、やがて、小田原の北条氏がこれらの勢力を統一しました。

   その後、豊臣秀吉の小田原攻めにともない、鉢形城は前田利家らに包囲され、岩槻城は浅野長吉らに、そして忍城は石田三成らに攻撃され、いずれも開城しました。

   江戸時代になると、旗本領や天領(幕府直轄領)が県域に設けられました。また、川越・忍・岩槻の三藩では城下町が整備され、岡部藩では陣屋が置かれました。交通も整えられ、江戸を中心に五街道が設けられ、県内には、中山道と日光道中(奥州道中)が通っていました。さらに、栃本((とちもと)大滝村)、川俣((かわまた)羽生市)、栗橋(栗橋町)には関所が置かれ、女子の通行や武器の移動に目を光らせていました。

   この時代には、新田開発が盛んに行われ、野火止(のびどめ)用水や見沼(みぬま)代用水などの大規模な用水路も開かれました。このような江戸時代の開発は、埼玉県を関東地方の代表的な穀倉地帯として発展させたのです。

 

  明治4年に埼玉県が産声

   やがて、徳川幕府が崩壊し、県内には従来の藩のほか、いくつかの県が置かれました。そして、明治4年、廃藩置県が行われ、県の統廃合を経て、11月14日に"埼玉県""入間県"が誕生しました。

   当時の埼玉県は、荒川以東の地域で、県庁は、交通、庁舎などの点から旧浦和県庁舎が使用されました。一方、荒川以西と熊谷以北の地域は入間県といい、県庁は川越町にありました。明治6年、入間県は、群馬県と合併されて熊谷県となりましたが、明治9年に分離して埼玉県に合併され、ほぼ現在の県の境域が確定しました。

   明治9年の「武蔵国郡村誌」による戸数は168,820戸、人口は896,107人。同年末ごろの町村数は1,934でした。

   明治21年4月に「市制・町村制」が公布され、翌22年で町村数は9年の約5分の1(409町村)に整備されました。さらに、明治29年に「郡制」が施行されると、県内は、北足立・入間・比企・秩父・児玉・大里・北埼玉・南埼玉・北葛飾の9郡に整理されました。

   今の市町村にほぼまとまるのは終戦後。昭和35年にはその数95(今は92)と終戦当時の3分の1になりました。